日本人の生活にぴったり寄り添ってきた和猫
蚕や食料、仏典をネズミから守り、子どもと遊び、人をなぐさめ、時を計り、化けて恩を返した。実はとても働き者な日本の猫の歴史をひもときます。
猫の日本史 その1
歌川国芳画『朧月猫の草紙』
出産、生き別れ、玉の輿、妖怪退治…主人公の猫「おこま」が巻き起こす波乱万丈の物語。擬人化され、表情豊かに飛びまわる猫たちだが、人間が一緒の場面では猫の姿に。当時の飼い猫事情もかいま見ることができ、資料的価値も。国芳が活躍した江戸後期、江戸の町では短尾が流行していました。国芳の『猫飼好五十三疋』を見ても、全73匹中52匹が短尾。
宇多天皇の黒猫
日本で最も古い飼い猫の記録は天皇による克明で愛情たっぷりの日記
中国からやってきた猫たちは、「唐猫」と呼ばれ、平安貴族の間で秘かな流行となりました。宇多天皇は先帝・光孝天皇から賜った唐猫の黒猫を大切に育てており、その様子を日記に書き残しています(『寛平御記』889年2月6日の条)。たとえば、「ほかの黒猫はみな浅黒い色であるが、この猫だけは漆黒」「瞳は光輝いて」「歩くときは音を立てないので、まるで雲の上の黒龍のようだ」といった具合。この黒猫はネズミもよく捕り、その「術は他の猫よりはるかに優れている」と自慢し、天皇自ら、「毎朝、乳粥をやって養っている」と。この猫を可愛がる様子が伝わってきます。
一条天皇の子猫
猫を溺愛する一条天皇の影響?『源氏物語』にも『枕草子』にも、猫
「いまふうでしゃれていると言えば、美しい猫に赤い綱をつけて歩くこと」とは『枕草子』の一節。また、『源氏物語』では、光源氏の正妻・女三宮と柏木が偶然に出会い、その後の密通へとつながる話の中で、子猫がかわいらしくも重要な役目を果たしています。清少納言と紫式部はいずれも、一条天皇の後宮(清少納言は定子の、紫式部は彰子の)に仕えていました。天皇は大の猫好きで、生まれた子猫に貴族の子どもと同じ生後の儀式をとり行い、犬に追いかけられて怖い思いをした際には犬を厳罰に処すなど、その溺愛ぶりは相当なもの。これもまた『枕草子』に書かれています。
秀吉の虎毛猫
大阪城で起きた秀吉の愛猫失踪事件。見つからず困った家臣の苦肉の策
あの秀吉から、行方不明の愛猫捜索を命じられたのに見つからなかったら、こんな小細工もしたくなるだろう…。困った浅野長吉(長政)は伏見城の普請にたずさわっていた野々口五兵衛にこんな手紙を送ったそうです。「貴殿のところに黒猫が1匹、虎毛の猫が2匹いると承っているが、虎毛のうち美しいほうを拝借願えないだろうか。それでしばらく間に合わせ、その間に力を尽くして猫を探し出し、そちらの猫はお返しする」。長吉が罰せられたという記録はないので、おそらく見つかった…?舶来物が好きだった秀吉のこと。きっと美しい唐猫を飼っていたのでしょう。
朝鮮出兵と猫
秀吉の朝鮮出兵に従軍した7匹の猫。お役目は「時刻を告げる」こと
薩摩藩島津家の別邸「仙巌園」にある「猫神神社」。秀吉の命を受け朝鮮出兵し、活躍した島津義弘公は「文禄・慶長の役」(1592年〜1598年)に7匹の猫を同行させました。猫の瞳孔の開き具合によって時刻を推察するためです。そして戦地で亡くなった5匹、生還した2匹の霊を猫神として祀ったと伝えられています。「猫の瞳が昼夜や明暗によって形が変わることを利用して時を計る」という古法は中国から日本に伝えられました。秀吉が朝鮮出兵した16世紀には日本の文献にも登場。中国伝来の新知識を実施してみるとは、さすが、中国との交易が盛んだった薩摩藩、島津公ならではのこと。