日本人の生活にぴったり寄り添ってきた和猫
蚕や食料、仏典をネズミから守り、子どもと遊び、人をなぐさめ、時を計り、化けて恩を返した。
実はとても働き者な日本の猫の歴史を紐解きます。
その1については以下の投稿でご覧いただけます。
猫の日本史 その2
徒然草的「猫又」
土地のうわさ話がじわじわ広がり「徒然草」が決定づけた化け猫の姿
平安末期、「本朝世紀」(1050年~1059年)に
「近江の国と美濃の国の山中に奇獣が出る。土地の人間はこれを猫と呼んでいる」
と記されました。
こうしたうわさ話が「徒然草」(1331年頃)の有名な一節につながっていきます。
「山の奥に猫またというのがいて、人を食うそうだ。・・・(中略)・・・。長生きした猫が猫またという怪物になって人を取ることはあるだろう。・・・(後略)」
さらにそのあと、
「本朝食鑑」
「和漢三才図会」
「重訂本草綱目啓蒙」
とさまざまな書物で「猫又」が開設されていくのですが、人気随筆「徒然草」に描かれた猫又をベースに色んな要素が加わって、化け猫のイメージが固まっていった様子が分かるのです。
「年をとった猫は化ける」
「神通力を持つ」
「人をとって食う」
「尻尾が二股にわかれる」
「物を言う」
など。うわさ話の想像力のたくましさ、おもしろさ。
猫1匹に5両?
ネズミ捕りが得意な猫は「逸物」と称され格付けもあった、養蚕農家向け猫市場
衣類や書物、書道具に至るまで、日本人の生活は紙と草木とのりの文化。
食べ物は言うに及ばず、「徒然草」に「身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり」と書かれるほど、ネズミは困った存在だったのです。
ましてや養蚕農家にとっては死活問題。
神仏に祈願したり、さまざまなネズミ除け対策を講じました。
そのひとつが猫を飼うことでしたが、問題は猫のネズミ捕獲能力。ピンキリなのです。「メスの三毛がよい」といった情報も飛び交います。
江戸後期に書かれた随筆集「甲子夜話」によると、ネズミ捕りが得意な猫は
「猫の価金5両位にて、馬の価は1両位なり」
さらに、どこかで大規模なネズミ被害が起こると猫の値段は高騰し、
「逸物の猫は7両2分」
になることもあったとか。一般的な猫はもう少し安かったとしても、猫がいかに大切な働き手であったかを伝えるエピソードです。
(※ 1両を現代の価値で換算すると、18万円~22万円程度となります)
殿様の「猫絵」
ネズミ退治にご利益。ニセモノが出回り薬売りがおまけにつけたほどの人気ぶり
養蚕農家の期待を背負ってきた猫
それは生きた猫ばかりではなく、描かれた猫にも向けられ、睨みをきかせた猫を描いた「猫絵」が盛んに作られました。
あの国芳も描いています。
中でも一番後利益があるとされ、有名だったのが「新田猫絵」
江戸時代後期から明治時代初期にかけて、
新田岩松氏の
義寄(温純)
徳純
道純
俊純
の四代にわたる殿様が、描いた猫絵はネズミ除けに効果があると信じられ、群馬、埼玉、長野などの養蚕地帯に広まったということです。
この「新田猫絵」は、新田岩松氏四代の殿様によるものが正統ですが、大変な人気で、この4人以外の新田を名乗るニセモノや贋作が出回るほどでした。
また、富山の薬売りは猫絵の版画を得意先に”おまけ”として配り、養蚕の盛んな地域でとても喜ばれたそうです。
新田猫絵は、以前、群馬県歴史博物館で展示会が開催されていました。
ペスト流行と猫
日本にペスト上陸するも4年で終結宣言。決め手は猫によるネズミ駆除
1894(明治27)年、中国で流行し始めたペストはあっという間に香港に。
船に紛れ込んだネズミによって各地の港から港へと伝播されたのでした。
政府は、北里柴三郎をリーダーとする調査団を香港へ送ります。
ここで北里はペスト菌を発見。帰国するとすぐ、港での検疫、患者が出た場合の隔離と消毒などを網羅した
「伝染病予防法」
を成立させました。
1899年、ペストはついに神戸に上陸し、横浜、東京にまで拡大します。
北里は感染が確認された地域で隔離や消毒を指導する一方、7項目にもわたる
「猫推奨策」
を出し、猫によるネズミの駆除を徹底的に推し進めました。
そうした対策が功を奏し、4年後に終結
(その後、小さな流行はあったが1926年を最後に患者の報告はなし)
家住性ネズミから撲滅不可能な山野のげっ歯類に伝播するのを阻止できたのが大きかったと評価されています。
北里柴三郎については以下でご覧いただけます。